損得

 以下に綴るのは正直暴論である、と個人的には思う。ただ吐き出したいので吐くだけです。

 

 人間は動物である。これを我々は忘れがちだと思う。自分が本来獣であることを忘れている現代人は多いんじゃないかと思う。要は何が言いたいかというと本来人間は醜いということだ。

 動物である限り純利益を求めて動く、そしてその過程で他人を犠牲にしないなどまあ不可能に近いだろう。人のため、人のためと言ってるが、それはただの偽善でしかない。結局、人にとっては他人は利用するモノでしかない。「愛している」なんて言っても、それは自分の欲求を満たすために、相手の時間を奪っていると言い換えられる。(このケースの場合、相互に時間を奪い合っているが、ここではただ損を与えているか否かだけを議論するので、この点については目を瞑る。)

 当たり前であるが、全員が得をすることが可能かと言えば、そんなことはない。人類の半分、どころではない数の人、個人的には99%くらいの人がきっと総合的に見て損をしているんじゃないかと思っている。もちろん私は明らかに損をしている側である。得:損=1:9くらいなんじゃないかと思っている。まあ、かなり損していると思う。こうなっている原因が自分の性格であることはわかっているが、ここでは深く言及しない。

 そこで私はこう望むのである、つながりを断ちたいと。

 まあ、これについては一生かなわないと思っている。結局、私は最後まで意思軟弱ですぐにこの願いはかなわず、人とつながり続けて、人とつながり続ける限り犠牲になるなら自分でいいと言って自分を犠牲にし、最後は老衰か病死か事故死といったところであろう。

 結局、社会とつながりがある限り、命というのは続くのである。

 このことから最近よくどうすれば、少しでも多く得ができるものかと思う。これについては一生正しい解は得られないと思う。ただ、これは解に入るじゃないか?というものに心当たりはある。それは…

 人とのつながりだ。

 こう言い出すと明らかに先述のことと反するが、結局人とのつながりなしでは生きてはいけないのが人間である。損をするかもしれない、だけれどもその1つ1つのつながりはかけがえのないものであるだろうし価値があると思う。

 

                 

紙一重

最近、特に思うことがある。俗にいう”病んでいる人”と普通の人の差なんてものはあまりないように思える。(いたって個人的な見解ではあるが、)この二者間で何が違うかっていったら、要は”気づく”かの違いであると思う。普通の人は自分の精神状態なんて気にせずに過ごす。ただ、ふとした瞬間に気づいてしまった人が病むのである。こういう人たちの可哀想なところは、今更相談しようがないという状態にあることである。後天性ゆえに仕方がないが、何より周りの人に相談しづらい。周りの人に相談したら、馬鹿にされると思うからである。個人的には、そんなまともに取り合ってくれないような、少しも話を聞いてくれないような人間関係なんて捨てればいいと思う。そんな人間は信用に値しない。だけど、相談しづらいのまた事実。じゃあ、どうすればいいかといえば、要は精神科医や心理カウンセラーの元を訪れればいい。そういう人のためにいるのだから頼るべきである。

さて、私も最近自分が後天性の”病んでいる人”なのだと定期的に自覚している。幸いなことに、私の周りには相談できる人がいるので助かってはいる。

次回はできれば少し境界例について紹介できれば思っています。(確約は致しかねますが…)